富谷茶の歴史

江戸時代、富谷はお茶の産地でした。
現在の内ヶ崎家別邸近くの坂の上に茶畑が広がり「富谷茶」として知られていました。

仙台を起点に蝦夷松前(現在の北海道松前町)まで宿場を歌にした『奥道中歌』で「国分の町よりここへ七北田よ富谷茶のんで味は吉岡」と詠われたように、奥州街道を往来する旅人が富谷茶を楽しんでいたようです。
当時の製茶は品質もよく、仙台藩主へ献上されていたほか京都まで出荷されたと伝えられています。

大正時代には30軒ほどの農家がお茶を栽培していましたが、次第に全国のお茶どころに押され、昭和45年頃に自家用として栽培を行っていた旅館「気仙屋」が栽培をやめたことで、富谷茶の歴史は途絶えてしまいました。

2020年に奥州街道の宿場町「富谷宿」の開宿400年を迎えるにあたり、公益社団法人富谷市シルバー人材センターを中心に「富谷茶復活プロジェクト」が始動しました。有志によってわずかに残っていた茶畑を活用して地元中学生と一緒に茶摘みを実施したり、3ヶ所(富谷市学校給食センター前、気仙屋、富ヶ岡公園)にお茶の苗木を定植したり、地域住民と交流を深めながらお茶の栽培と商品化を目指し、富谷茶の新たな歴史が始まっています。